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2010年 06月 01日
鈴木忠志「過疎村のこと」を読む。
今日はBeSeTo演劇祭の東京プログラムのチケット発売日だったので、午前中、事務局がおかれている舞台芸術財団演劇人会議の事務所に行って、仕事をした。

帰り際に、そこらへんにあった冊子を手にとってパラパラとめくっていて、「過疎村のこと」というこのテキストが目に留まった。聞いたら冊子は1000円、買って帰った。
冊子は、2008年に静岡県舞台芸術センター(SPAC)から発行された、鈴木忠志『Culture is the Body 文化は身体にある』というもの。前半が英訳で、後半がもとの日本語テキストという構成になっているのだが、後半、いくつかあるテキストのなかで、「過疎村のこと」これだけが英語に訳されていない。

初出が書かれていないけど「私が利賀村で演劇活動を初めてから、来年で十年になる。」という書き出しで始まっているから、おそらく、1985年に書かれたテキストだと思う。鈴木さんが利賀に行ったのは1976年のこと。

このテキストが異常に面白い。というか、あまりにいま的を得ている。

…もう何度も、いろいろなところで説明したことですから、くわしくはふれませんが、ただ、東京だけで活動するのがいやだった。そういう意味では、東京以外ならどこでもよかった。それはまったく、新宿区戸塚町に早稲田小劇場をつくったときと同じです。新宿でならなければならない理由も、たかだか百人しか入らない小劇場であることが演劇的理想の実現であるなどということもなかった。たまたまそうなったにすぎないのです。
人間は何かを選んだつもりになっていても、そんなことはありません。いつも、ある限られた状況のなかで一つの行為を選ぶという決意をさせられています。だから新宿に小劇場をつくり活動したことも、正確にいえば、その当時の私の演劇活動への意欲がいちばん妥協少なく実現する一つの、強制されたあり方であったにすぎないともいえる。もし、演出家としての私の活動が、多くの人たちにそうではないような印象をあたえたとしたら、たまたま私が選択し決意させられた行為の持続のなかで、私が発見したことに驚きをもち、その発見と驚きを大事にしたいという発言をしたり、たびたび文章に書いたりしたからでしょう。


この続きには、利賀の空間に魅力を感じた鈴木さんが「自分は利賀の空間に死ぬまでこだわる」みたいなこと、が書いてあって、3年前にSPACの芸術総監督を退いた、今年71才の鈴木さんが、SPACの在任中も利賀で作品を発表しつづけ、いまほんとに利賀に重心をおいて活動している(利賀で稽古して海外各地をツアーしてまわり、来月の『シラノ』の稽古も利賀でやるのだそう)のを見るにつけ、その「決意させられた行為の持続」に、本気に熱いものを感じずにはいられない。

まじ全部、引用してしまいたいくらいなので、是非買って読んでいただきたいわけなのだけど。BeSeToとかでも売るみたいだし。

…私は欲ばりだから、利賀村を本拠とするにしても、利賀村だけではなく、ニューヨークにもパリにも、青森にも鹿児島にも、気に入った劇場がほしい。
ですから、演劇論的には気に入らない部分があっても、ときどき帝国劇場や岩波ホールで演出したりもします。そのときどきの意欲をもっとも妥協少なく実現できる場があれば、ありがたい気持で演出することにしています。私が岩波ホールで演出すると、本来野性のものである芸能が、アカデミズムの虜になり堕落した、帝国劇場で演出すると、商業政策におどらされているなどと陰口をたたかれる。どこで何をやろうが、まったく舞台の内容の問題であって関係がないのに、これまでの演劇のあり方と較べてなにか少しでも予測を超えた動きをすると、グチャグチャいうのは、日本的業界の相も変わらぬ悪いクセです。もし演劇がアカデミズムの虜になったり、商業政策の踊り手になれるのであったら、もっともっとそうありたい。アカデミズムと商業主義から同時に注目されるほど、演劇にとって光栄なことはないからです。
商業主義うんぬんに関していえば、われわれの利賀村の活動は赤字です。(…)だいたい利賀村じたいが自立してない。村の年間予算は十六憶、そのうちの九十五パーセントは補助金でまかなっている。つまり、われわれの劇団と同じように、行政的には中央官庁のある東京から金をぶんどって、ここにつぎこんでいるのです。


で、鈴木さん利賀村にこだわるもう一つの理由として、「典型的な過疎地だから」を上げて、こう書く。

屋根からすべり落ちてきた雪のために、毎年、死者がでるくらいの豪雪地帯です。年をとると、都会で働いている息子や娘をたよって離村することになります。離村した人の家が点々と山すそにある。ひと冬すごすと、雪の重さでそれが一つ一つ消えていく。この寂しさは、ちょっといいようがありません。初めてこの村に来たとき(…)美しい自然と合掌造りに感動した若い劇団員の第一声は、両親にこんなところに家を建ててやりたい、でした。

僕は冬の利賀にいったことはないし、つぶれた家を目の当たりにしたこともない。5月でも雪があって、利賀山房の床が足が凍りつきそうに冷たかったことくらいしか知らないけど、こうしたことがあるのは、想像にかたくない。しかしかなしすぎるだろ。
で、そのあと、サルトルの言葉についていいつつ、鈴木流の人生観を書く。

私などは、しょせん人間の一生はどんなに一生懸命生きようが、偶然に左右されているもので、決してこれでよし、などといって死ねるものではない、どんな人間もやりたくてできなかったこと、あるいは自分の意図とはちがった生き方を生きてしまう、そういうことを承知のうえで、どこまで自分の人生を意識的にすることができるのか、そういう闘いをたたかってみよう(…)何かができなかったことを後悔するのではなく、やろうとすることのなかったことを後悔することのないようにしよう(…)

いきなり我田引水するようだけれど、これはもう僕の言葉です、といいたいくらいで。
このブログを「サイコロ」という題にしているのは、人生は偶然に左右されて思うようになんかいかないってことを受け入れて生きていこうとすんなり思ったときからだし、なんだかしらないけれど10年とか演劇に身をなげうってかかわっているのも、いまへろへろになってももろもろ前向きにいようとしているのも、「やろうとすることのなかったことを後悔」したくないからなんだ。
なんでもやればいいということではないけれど、ダメだダメだといっていてもなんにも始まらないし、そうやってシラケている考えが理想とするものが実現するような、お客様になんでも自動的にサーブするようなそんな世界じゃないし、なにより、そうやってシラケているうちはいいけど、やるとなったら、どうせちがったことになる。シラケているうちは、やる気が無いからこの「ちがったことになる」部分がわからない。ていうか、なにもしなくても「ちがっ」ていっているのに、それもわからないまま人生を終えてしまうのでいいのだろうか。と自分にいつもそんなふうに問うている。

自分の人生を意識的にしよう、これは近代人の生への自覚です。しかし、これは必ずしも自分の人生に一貫性をもらせるということではないと思います。そんなことはできるはずもありません。人生にはそのつどごとに生きなければならない、いろんな水準の生活がある。われわれの生は偶然と共棲しているものですし、多層的です。一貫性を持たせようとするために偶然性を排除したり、いろんな水準のことがらを一元的に把握しようとして、せまく決められた将来への道を競走馬のように一直線にすすんでいくというようなものではない。そのつどそのつど、自分のおかれている場への真摯な考察と、そこから導き出されてくる自分なりの行為の仕方を、できるだけ自覚化していきたいといったことです。当世はやりの言葉をかりれば、シラケつつ人生にノルでしょう。それが人間というものが自分だけの世界ではなく、個人というものを超えた大きな世界の中で生きるということの意味だと思うのです。

1985年というバブルまっただなかで、鈴木さんのような、ハイアートだと思われている人間が書いたこのテキストがどのように読まれたか、まっすぐに書かれたものがまっすぐに読まれただろうか、と考えると、まったくそんなことはなかったんじゃないだろうかと思う。
それでもこうやって25年経って、いまこのテキストと出会うことができたとき、バブルのまっただなかの東京を遠く離れて、滅びゆく山奥の利賀村で、演劇をしながら思考をめぐらしていた鈴木さんのシンプルな姿が、かえってくっきりと、残酷に、見えてくるような気がするわけでもあり。

といったわけで、われわれの劇団が経済的に一国を形成するような大企業なら別ですが、そうではないのですから、もし利賀村が滅ぶようなことがあったら、われわれの活動も滅びるという、そういう関係にあります。地域とのこういう関係は、東京では思いもつきません。おそらく、多くの演劇人は東京が滅びるなどとは考えもしないでしょう。たとえそういう仮定の質問をしてみても、不思議な顔をするだけでしょう。それは彼らのほとんどが、東京が滅びるといわれても、その言葉にリアリティを感じないか、それが現実的な日程にのぼらないからです。本当は東京だって、いや日本にしたところで、滅びる可能性はあると私は思いますが、この利賀村が滅びることがありうるということは、生活実感としても、統計上の可能性としても、確実にいえると思うのです。
こういう村の事情を知りながら、どうしてただ演劇のことを考えて活動できるでしょうか。もし村が滅びそうなら、一人間として最善をつくすこと、そしてそこから村について、ひいては日本について考え学ばなければならない。演劇活動につぎこんでいると同じようなエネルギーをもって、そのことをはたさなければなりません。いささかの僭越さを覚悟していえば、村長や心ある村民とともに、私もまた、敗者の頑張りを私なりに生きてみたいと思ったのです。


村が滅びる過程にあることをこまかく述べた上で、こう続く。
僕はなんか、まったく鈴木さんのことを誤解してたんじゃないかなぁという気分になった。アングラの巨頭のひとりとして、勇躍東京から離れ、その後も自治体との関係を築きながら、誰も無しえなかった大業をひとりの力で実現してきた、孤高の「勝者」のように見ていた。

いま僕たちは、東京が滅びること、日本が滅びること、をたまに、ひそかに、想像することがある。もうそろそろ「現実的な日程」として、視界にいれている人もいるのではないかと思う。
もはや勝者ではなく、敗者になって、敗者の頑張りをがんばらないといけないところまできているのではないか、そんな気がする。
いま、そうしたなかで、東京で、演劇のことだけを考えて生きていることは、とても虚しい。僕は、たまに、そうした気分にとらわれる。いや、たまにではないかもしれない。けっこう感じているかもしれない。なにか、なにかをしていないような気がする。
去年、青森で畑澤聖悟さんの話を聞いた時も、このまえ、枝光で市原くんの現場をみたときも、これは未来だなぁって思った。もう、まっすぐに、この25年前の思考を受け止めることができるときが来ている感じがする。
バブルのまっただなかでさえ、こういうことが見えていた人もいたのにいまこうあるのだ、というひどく「ちがった」現在のリアル?とともに。

本当の意味で、方法化できないことの虚しさを相手にして、まじめにたわむれ遊んだことはない。演出家の宿命ともいうべき敗者の頑張りをがんばったことはないのです。私にはそういう人たちこそ、遊びだ遊びだとばかり、いじけたまじめさを発揮しているとしか感じられません。(…)私にいわせれば、なんでこんなに、たかが演劇という遊びのなかで、遊びだ遊びだとまじめに右往左往するのか、不思議でなりません。もちろん、たかがということは、演劇という遊びにまじめに対さないということではなく、人生と同じように、どんなに一生懸命やってみても、たかがということです。

「たかが人生、されど人生」の人生ではなく、「されど、されどされど、されどされどされど、たかが人生」の人生のために、僕はもっとやらないといけないと思う。もっと考えないといけないと思う。なんてこった、ではあるけれど、生きてるし、死ぬまでは、やらないと。

by psykholos | 2010-06-01 23:24 | 雑記


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