2009年 12月 31日
2009〆
きのうはポ祭で、いろんな人と話した。

飴屋さん・相馬さん・三好さんや、松井さん・ちからさんと話していて、わが星問題についてもひとつ新しい「言い方」を思いついた。

わが星が、ノイズがない、か、ノイズが起こりにくい状況にしているやり口だから、全体主義っぽい、宗教っぽいという見方が、まあ、ある。それ自体はまあ否定しないし、現代演劇はノイズにアイデンティティがあるとかんがえるなら、わが星が演劇でなくても僕はよいと思う。

思ったのは、ノイズがないとかあるとかいうけれど、たとえば飴屋さんの舞台を見るときに、もちろんすごくノイズ~その場で起こることで起こること、生まれるニュアンス、予定されていないことへの開かれ~があるのはわかるのだけれど、いっぽうで同時に、明らかにそれが演劇という装置や決まりごとのなかで起こりうるものであるというある種の諦めを持って提示されているものであるとも感じる。「もっと違うところで違うようにやればもっとできますよ、でも、いまここでこの条件でやるからこの程度のことがふさわしいでしょう」というような節度を感じる。節度をもつことで、あの緊密なヴィジョンと時間が編まれているように思われるし、逆に、「これがこのようにできるということは、もっとすごいことがあり得る、あり得たのだ」という想像も働いて、より一層面白く見ることができたりする。

なにがいいたいかというと、ノイズうんぬんといったって、演劇で開陳されるノイズは、「装われたノイズ」であるということを、飴屋さんはどこかでしっかりとキープしていて、だからこそ、あの注意深さがでてくるんじゃないかと。
飴屋さんは、演劇をオファーがある限りでやっている。それは昨日もいっていたし、エクスポのインタビューでも書かれてる。一番始まりのところで、演劇という決まりごとをオファーされることで、作品をつくっていると感じる。飴屋さんの作品は、飴屋さんが所有する作品ではないということ。たぶん、誰かがやれといったから、やれといって用意された状況のなかで、構造とノイズをたたえた作品を創ってるような気がしてならない。

で「わが星」と柴くんの話。
ハイバイラジオでの岩井さんとの話で言っていたのだけど、柴くんがいまの方法を始めたのは、「とにかく作者の都合というのがいやだ」というところからだそうだ。「ここで伏線張って、ここで回収してなんかがどうかして」みたいなのが、とくにキャラクターの属性で操作されることがいやだと。だから、編集の感覚でセリフやシーンをカット&ペーストするだけで、素材やテーマ自体はほとんど意味のない、薄いものを使いながら、編集だけでやけに多くのことを感じてしまう、という観客の側の能動性を逆に暴くようなことを始めて、「わが星」はその在庫一掃セールだった。
「わが星」に対しては、上にも書いたように、すべてが演出家の都合で操作されて、ファシズムであるように感じる、というような批判が多くあるのだけれども、これは実のところメビウスの輪みたいな感じに、意図をなくしたら意図だらけに見えてしまった、という逆説の部分があると思う。
それは決して失敗なのではなくて、そういう逆説的な構造に、演劇という装置・決まりごと自体がある、ということだろうと思う。すべてが装われた出来事で、その装われた出来事を観た人がそれで右往左往するという。

「わが星」側から演劇の外に立ってみれば、ノイズも所詮は「装われたノイズ」であるし、作者が意図していれたノイズにすぎない。だからこれを寿ぐのも、装われた程度で寿ぎたい。
現に、柴くんは、いわゆる静かな演劇の方法で、役者をキメキメにしないで、役者から出てくるノイズやぶれも作品のなかに取り入れてもいる。それを前提にしてつくったなんでもないシーンを、編集的なやり方でカット&ペーストしてつくってる。

あんまりうまくかけてないけど、明日は来年なので、今日書いておきたい。

つまり、ノイズがあるよりも先に演出家の演出=編集がある、ということを柴くんはどこかでぐっとキープしていると思う。俳優から入って、空間やその他ものとのあいだで起こるノイズを「本物」と見ることに対する節度、ということだけれども。
演出家がいて、演出をして、それで演劇が立ちあがってしまうからどうしても、「装われた演技」「装われたノイズ」を越えることができない。それで仕方がないから、できるだけそのこと=演出してしまうということに正直に、控え目に演出をすると、「わが星」の方法になる、という逆説。

でこれでいうと、飴屋さんが、俳優をあまり使わないこと、につながる線があるように思うが、うまく文章がつながらないのでこのへんでやめておく。

たまたまだけど、飴屋さんの口から柴くんのことが出てきて、なんか、2人は全く別の方向から、同じような見方で演劇を観てるんじゃないかっていう気が、したのだった。

これは全部僕が妄想したことで、本人がそう思ってる、ってことではありません。
あと、柴くん自身は、いまのこの方法でいることを途上だと思っているので、俳優をもっと生かすとか、柴くんの方法はこれからどんどん変わっていくだろうと思います。それはハイバイラジオを聞けばわかります。

ポ祭に関してはもう一個書きたいことがあるのだが、それは今度。2010年に!
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by psykholos | 2009-12-31 11:20 | 雑記


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